物心つくのと同じ頃からイチローは、野球史に残る大活躍を見せてくれました。
「50歳までは現役」を公言していたイチロー選手も3月21日のアスレチックス戦をもって引退となりました。
今日はそんなイチロー選手の偉業を振り返っていこうと思います。
(写真はベースボールキングより)
- プロ野球選手歴28年
- 1992年:プロ1年目は2軍で大活躍
- 1993年:2年目も2軍中心
- 1994年:3年目は飛躍の年、イチロー誕生
- 1995年:被災地を勇気づけてくれたプロ4年目
- 1996年:悲願の日本一達成
- 1997年:メディアを避けるようになったプロ6年目
- 1998年:もはや日本では無双状態のプロ7年目
- 1999年:スランプ脱出するも、連続出場記録が途絶えた8年目
- 2000年:日本最終年も怪我に泣く
- メジャーでの活躍:通算打率.311
プロ野球選手歴28年
1991年のドラフト4位で愛知県の愛工大名電高からオリックス・ブルーウェーブへ入団したイチロー選手。
(サンスポより)
高校時代はピッチャーとして甲子園にも出場しましたが、
1991年のドラフト4位でオリックスへ外野手として入団しました。
そして翌92年からプロ野球選手としてのキャリアがスタートします。
2000年まではオリックス・ブルーウェーブで前人未到のシーズン200本安打を達成するなど大活躍し、
2001年からはメジャーリーグのシアトル・マリナーズへと活躍の場を移しました。
これまで28年間もプロ野球選手として第一線でプレーし続け、
ついに2019年3月21日東京ドームでのマリナーズ対アスレチックス戦を終えた後に、
引退を発表しました。
それではイチロー選手の28年間の軌跡を1年ごとに振り返ります。
1992年:プロ1年目は2軍で大活躍
今となってはMLB殿堂入り確実の安打製造機となったイチローですが、
オリックス・ブルーウェーブへの入団は高卒ドラフト4位でした。
そしてこのときの登録名はまだ本名の、鈴木一朗でした。
プロ1年目は鈴木一郎も、まずは2軍での生活が中心。
しかし弱冠19歳で2軍に58試合出場し、238打数87安打、打率.366という、
驚異的な好成績を残しております。
その結果、シーズン途中で1軍に昇格し、1軍では40試合に出場して打率.253という成績を収めました。
1993年:2年目も2軍中心
2年目の大ブレークを期待された鈴木でしたが、1軍で定位置を掴むまでには至らず。
この都市は1軍では43試合に出場し打率.188と、一年目の下回る成績となってしまいました。
1994年:3年目は飛躍の年、イチロー誕生
3年目になり、監督が故・仰木彬氏へと代わったタイミングで登録名が「イチロー」へと変更されました。
そして、日本中にイチローという名前を轟かせるほどの大活躍を収めます。
当時の日本プロ野球記録となる、130試合での210安打を達成しました。
打率も.385とぶっちぎりでの首位打者にも輝きました。
このプロ3年目より、安打製造機・イチローの活躍がスタートします。
1995年:被災地を勇気づけてくれたプロ4年目
1995年1月17日。
兵庫県を襲った阪神淡路大震災。
6000名以上の犠牲者を出した大地震で、オリックスの本拠地である神戸の街は壊滅的な被害を受けました。
そんな震災に沈む神戸を勇気づけてくれたのが、
イチローでありオリックス・ブルーウェーブの目覚ましい活躍でした。
(サンスポより引用)
「がんばろうKOBE」を合言葉に震災で傷ついた神戸市民を勇気づけようと、
オリックス・ブルーウェーブは大躍進を遂げ、82勝47敗という圧倒的な成績でパ・リーグを制しました。
このオリックスの大躍進とともに、神戸の街は震災から復興の道を歩むのでした。
イチローも好成績を収め、打率.342で2年連続の首位打者を受賞しました。
なお、日本シリーズではセ・リーグのヤクルトスワローズに1勝4敗で、惜しくも日本一は叶いませんでした。
1996年:悲願の日本一達成
そして96年。
引き続き「がんばろうKOBE」をスローガンに掲げ、オリックスはパ・リーグを連覇します。
その後の日本シリーズでも巨人を4勝1敗で蹴散らして、
名将・仰木彬監督の元で、悲願の日本一を成し遂げました。
プロ5年目のイチローの成績は193安打、打率.356と素晴らしい成績で3年連続の首位打者に輝きました。
なおイチローはメジャーへ移籍する2000年まで7年続けて首位打者を獲得し続ける、
日本最高のヒットメーカーとなりました。
1997年:メディアを避けるようになったプロ6年目
24歳になったイチローのターニングポイントとなったプロ6年目。
この年よりイチローのメディアに対する態度がかなり冷たく、避けるようになりました。
そのきっかけとして言われているのが、
97年のシーズン中にとある週刊誌で、
事実に基づかないイチローに関する連載が始まったことが挙げられます。
それまでは青年らしいとてもにこやかで爽やかな表情でメディア対応をしていましたが、
この頃からメディアを避けて、インタビューにしっかり答える記者も選ぶようになりました。
6年目のシーズンで特筆すべきは、日本プロ野球の連続無三振記録です。
実に218打席連続で三振を喫することなく打棒を奮いました。
成績は、打率.345で、チームは3連覇ならず、惜しくも2位でペナントレースを終えました。
1998年:もはや日本では無双状態のプロ7年目
このシーズンもフル出場を続けて打率.358を記録。
その結果、これまでNPBで最長であった張本勲氏の4年連続を抜く、
プロ野球史上初の5年連続首位打者となりました。
一方で、このシーズンでは21個もの併殺打を記録しており、
俊足で内野安打が多いイチローとしては珍しい状況でした。
後にイチローが振り返ったのは、実は95年から99年のシーズンまでスランプを感じていたそうです。
ただ、調子が悪い状態でも常にヒットを放ち続けた彼は、
日本ではまさに無双状態となっておりました。
1999年:スランプ脱出するも、連続出場記録が途絶えた8年目
99年4月11日の日本ハムファイターズ戦での第5打席。
当時日ハムのエースとして君臨していたイケメン西崎投手の前に喫した2塁へのゴロをきっかけに、
開眼してバッティングのスランプを脱出したと語っています。
そこからはもう絶好調で、だれもイチローを止めることはできない状態で、打って打って打ちまくりました。
全盛期の和田サンをも上回る勢いですね。
そんなイチローも怪我に泣くことになりました。
8月の日ハム戦で下柳剛投手のボールが死球となり右手を負傷し、それ以降の試合に出場することはできなくなりました。
しかし、規定打席には到達できたので、打率.343で6年連続首位打者となります。
2000年:日本最終年も怪我に泣く
結果的に日本でプレーする最終年となった2000年シーズン。
夏場まで打率3割9分台を維持するなど、NPB初の4割打者誕生も夢ではないと思わせるほどの、
驚異的なペースでヒットを放ち続けてきました。
しかし、前年に引き続き2000年も8月の試合中のバッティングで右脇腹を負傷して、
シーズン後半の出場はかないませんでした。
このシーズン終盤に、ポスティングシステムを利用してメジャーリーグへ移籍することを発表し、
本拠地であるグリーンスタジアム神戸の最終戦に、9回に守備固めとして最終回に出場しました。
この試合がオリックスの一員として、日本での最後の出場となりました。
日本最終年の成績は、
打率.387、出塁率.460という他の追随を許さないものでした。
このシーズンまで、実に7年連続の首位打者となり、いまだに破られていない日本記録となっています。
そしてシーズンオフには日本人初のポスティングシステムを利用し、シアトル・マリナーズへと移籍することになりました。
【NPBでの成績】
通算9年 951試合 打率.353 1278安打 出塁率.421